非常にまたストレスの溜まる出来事があって、せっかくの3連休は引きこもり状態となっておりました。気持ちに元気がない時、気分転換に始めるのは何故か納戸の整理。
片付けが"隠れ趣味"である私ですが、手の施しようのない実家のモノの山に萎えることしばしばです。腰痛を引き起こしながら、1/3ほどのスペースを片付けてました。そして・・・。
大量の不用品を片付けているうちに、ふと怪しげな箱が目に付きました。あけてビックリ!玉手箱。そこには、長らく紛失していたクリッパーの切抜きが!!思わず「あったー!!」と雄たけび。子供の自分、大事に大事に切り抜いてた記事(種類は少ないけれど)にまさかのご対面。母に報告すると、「でしょう、お母さん、捨てないよ。」という返事。思わず合掌(笑)。
私が初めてクリッパーを知ったのは、アイドル雑誌の新人紹介コーナー(↓)。この記事だけは脳裏に焼きついておりました。ちょっと見慣れないアジアンテイストのプリティーフェイス。オカッパ頭が可愛くて、一度見たら忘れられない感じです。このとき、長女ダイアナが14歳〜末弟ジョンジョンが8歳という紹介ですね。
しかし、カッターなど知らなかった幼い頃、そのままビリビリと記事を破っていたようで、切り口がボロボロだったりします(涙)。ちょっと落ち込みつつも、他の記事を見ていたら、クリッパーの初来日や詳細が少し判明したので、年表にしてみました(笑)。まだまだ抜けが多いので分かったら更新します。
年月 | 出来事 | 備考 |
---|---|---|
来日以前 | フィリピンにて活動 | 2年間?歌っていた |
1978年5月1日 | 1stシングル「あいつのストリート」発売 | |
1978年5月2日 | 初来日 | 東京・用賀に住む |
1978年8月21日 | 2ndシングル「キャットマン・ディスコ発売 | ソロ:ウォーレン |
1978年10月下旬 | フィリピンへ一時帰国 | ビザの書換え |
1978年11月15日 | 日本帰国 | |
1978年12月5日 | 3rdシングル「BOY」発売 | ソロ:デニス |
1979年12月21日 | 1stアルバム「BOY」発売 | |
1979年 | 4thシングル「ディスコ・ダック」発売 | ソロ:ジョンジョン |
1979年 | フィリピン帰国 | 本国にて活動開始 |
【日本でのエピソード】
わずかばかりの記事を読み返してみると、いろいろと知らなかったことが書いてありました。その中で、印象的なエピソードを挙げてみます。
寒い日本
来日した5月頃は、「寒い、寒い」を連発していたそうです。南国出身のクリッパーにとって、日本の寒さは辛かったようで、冬場?は、パジャマの中に厚手のセーターに、靴下という姿で眠っている写真がありました。
大家族
全然記憶になかったのですが、クリッパーの本当の末っ子、アナ・ミシェル(愛称ミッチー)ちゃんは、結構記事に登場しておりました。両親と祖母、6人の子供達の9人で住んでいたようですね。母親は、ゲームスカッシュのコーチということで、子供達もテニスを始めた様子も紹介されています。その後、父親は仕事の関係で帰国したそうです。*1
中央の赤い服の少女がミッチー6歳。”ワンパク潤・P”のウォーレンは、「持ち前の明るさで周りをつねに笑いのウズに巻き込んでしまう。まさにチビッコエンターテイナーだ。」という説明書き。
作曲家・都倉俊一氏を唸らせる
「こんな小さな子にこんな素晴らしいハーモニーができるなんて信じられない」と感嘆させた、というコメントがありました。クリッパーも「都倉先生は、上手に指導してくれるので安心。叱らずに一緒に遊んでくれるの。」というコメントを。
マニラへ一時帰国
年表にもあるとおり、ビザの書換えで一時帰国したクリッパー。2週間程度の帰国期間に現地での元気な様子も写真に写っています。日本からのお土産もいっぱい買い込んで、友達とも会って楽しんだそう。ただ、マニラ国際空港に到着した時は、洪水により自宅が浸水。生まれ故郷のタギーの町に行くことすらできないため、父親の実家に身を寄せたとか。
次回は、メンバーのインタビューなどをアップします。
*1:ダンディなお父さんと美人のお母さんもいくつかの記事で一緒に写っておりました。